30代当時の僕は、サラリーマンとしては稼いでいた方の人間だと思います。どういう形であれ、30代のほとんどの期間、年収は800万円を超えていました。
しかしながら、たった3ヶ月で辞めた会社があります。
年収は800万円。肩書は課長待遇。年俸制。
30代後半としては申し分ない待遇でした。男の子として一度は憧れた「プロ野球選手と同じお給料の貰い方」
通勤は社バス1本。駅までは徒歩5分。
副業で始めた秘書の仕事との両立も無理なくできる距離。
前職でライバルだった会社で、製品の品質もこちらの方が上。
面接では将来性を示すデータ付きの説明があり、未来も明るいと思っていた。
ここしかない。ベストな転職先だ。
そう信じて入社しました。
…でも、たった3ヶ月で辞めました。
その名の通り、「やれ」としか言わない上司
入社早々、僕の前に立ちはだかったのが、「やれ、やれ詰め込み上司」。
どれだけ納期が無理でも、他の仕事を抱えていようと関係なし。
「やれ」の一点張り。
相談しても「それもお前がやれ」。
限界を伝えても「じゃあいつ終わるの?」。
本人は、定時になった瞬間、ダッシュで帰ります。。。
マネージャー待遇で採用された僕は、当然のように責任だけを背負わされました。
フォローも、サポートも、一切なし。部下もいませんでした。
ある日、同僚からこんなことを言われました。
「あんたは“組合員じゃない奴隷”として採られたんだよ」
笑えないくらい、現実そのものでした。
部下ゼロ、サポートゼロ、責任は全部こっち
問題が起きれば、上司は逃げて僕が吊し上げられる。
役員、部長、次長、全方向からの叱責。
毎週、呼び出されては詰められる。
上司はその場にすら現れず、
ただ「マネージャーなんだから当然でしょ」と言ってくる。
僕の前に3人、すでに壊れていた
後から知ったことですが、
この上司の下で働いた僕の前任者3人は、全員メンタルを壊して辞めていました。
誰が来ても、潰れる。
“人を潰す仕組み”が、会社の中に当然のように存在していたんです。
この会社なりの作戦だったんでしょうね。管理職ポストを用意し、僕のようなカモを雇い、残業もさせ放題、さばけない量の仕事をぶち込む。成り立っていない構造だろうと関係ない。それを今まで組合員にやらせていたから、辞められて問題になって手の付けられない状況になっていた。
プレイングマネジメントスタッフ。2度と忘れない職位名です笑
製品の品質にも、希望はなかった
それでも「製品の品質には期待できる」と思っていました。
実際、転注されてきた部品は僕にとっても馴染みのあるものでした。
でも、ふたを開けてみれば——
新人の僕でも「なぜこんな設計に?」と思うような箇所がいくつもある。
目的が見えない。効率も悪い。
そして、それを誰も疑っていない。
あの品質の高さは、どこにも引き継がれていなかった。
尊敬していた元上司が、怒鳴っていた
人間的にも尊敬していた上司が、お客様としてそのプロジェクトを率いていました。
僕が知る限り、常に冷静で紳士的。
優しいイケオジで、声を荒らげる姿なんて見たことがなかった。
でも、その人が今の会社の担当に対して怒鳴っていたんです。
信じられませんでした。
でも、それは完全に自社の担当の対応が悪かったから。
成り立っていない構造の製品を納めて、説明できていないのはこっちの非。なのに、その上司が怖い。。。と謎の尻込みをしていた。
尊敬していた人が怒鳴らざるを得ないほど、ひどい対応。
それが、今の会社の実態でした。
極めつけは“決算報告会”
そして最後のとどめは、入社後に開かれた決算報告会でした。
そこで経営陣が語ったのは、
面接で聞いていた内容とはまるで別物。
「これからアカウントを自発的に整理して…」
「数字の見せ方を変えていって…」
いや、それもう面接で言ってたことと全然違うやん。
どころか、粉飾してんじゃないのか?💢と感じるレベル。
「未来がある」と言っていたあの資料は、いったい何だったのか?
「お前はプロじゃない」と人格否定された日
さらに追い打ちをかけるように、
経営層からは、こんな言葉が飛んできました。
「あなたはプロじゃない」
「前職、〇〇でしょ?そんな簡単なこともできないの?!」
「あなたね、周りからの評判悪いよ。そもそも人間的になってない」
「給料返してほしいわ」
などなど
1回や2回ではなく、ヒアリングで毎回、よくわからない説教。
内容ではなく、人格を否定するような言い方ばかり。
この頃には、心だけでなく体も壊れ始めていました。
・朝起きても疲れが取れない
・胃が痛くて何も食べたくない
・息が浅く、頭も回らない
・休みの日すら、心が休まらない
この日、退職を決意した
その日の帰り道、駅から家までの歩き時間わずか5分。
僕は心の中で、静かにこう決めました。
「もう、無理や。辞めよう。」
給与も条件も、未来のビジョンも、何もかもが崩れ去った。
身体もしんどい、心も限界。
そんな中で、人格を否定されながら働く理由なんて、もう一つもなかった。
タイ人だった上司に、英語のセリフを準備し、翌日会社でこう伝えました。
I will leave this company, if you and executive need, I prepare money for return salary!!
But I never comes here from now, Please contact me NEVER!!!!
(日本語訳)
僕はもう辞める。役員たちが本当に給料返せというならもらった給料を全部返してやる。その代わりもう2度と会社には来ないし、そっちからも2度と連絡してくるな!!
スッキリした。会社を辞めるときにこんなに強く言ったのは後にも先にもここだけ。帰るときに上司は、「ゴメンナサイゴメンナサイ💦」と言ってきたが無視して帰宅しました。
まあ、給料もってこいとは言われなかったので、それ以上関わることもなくなりました。
僕は、副業があったから逃げられた
ひとつだけ、救いがありました。
それは、副業を始めていたことです。(結果失敗するんですが)
「自分に他の道がある」と思えたことが、心の支えになりました。
もし副業をしていなかったら、
辞めたくても辞められなかったかもしれない。
社会人1社目で働いていた時はどんなに嫌になってもこの考えがなかったから辞められなかった。
教訓:もっと早く“自分の業”を持っていればよかった
今になって思うのは、
もっと早く「自分の業(わざ)」を持っていればよかったということ。
会社にしがみつくしかない状態だったからこそ、
無理して耐えて、壊れかけてしまった。
何か一つでも、自分の力で稼げる手段や武器があれば、
最初からこんな職場に来なかったかもしれない。
最後に:これは“失敗”ではなく、“再出発のきっかけ”
僕にとって、この3ヶ月は失敗ではありません。
自分の限界に気づき、行動できた。
そして何より、「自分の人生を取り戻す決断」をした。
だからこれは、“失敗談”じゃない。
再出発のきっかけだったと思っています。
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